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Social Welfare Corporation FUKUOKA HIKARI FUKUSHIKAI

執筆者の写真groups hikari

「私、愛されとーもんね」

 以前にもかしはらホームニュースで紹介したことがある大原たか子さん、昨年冬に70歳になりました。本来であれば、2020年に大々的にお祝い会を開催する予定でしたが、コロナウイルス流行の影響で何もかも未定のまま無期延期となっていました。

 そんな中、今年1月に大原さんが体調を崩してしまい、お祝い会どころではない状況になりました。現在も治療中ですが、苦手な通院や検査も頑張ったおかげで驚異的な回復力を見せ、4月30日無事にお祝い会の主役を務めあげるまで復活することができました。今回のニュースで表紙を飾った大原さんのライフヒストリーを簡単にご紹介します。


◆かしはらホームに来るまで ~制度によって人生が左右されてきた~

 1950年大原家の長女として生まれます。早くに両親が亡くなり身寄りもなかったことから、14歳でA病院に入院し約40年間入院生活を送っていました。

 それ以前は畑仕事を手伝ったり、博多織の工場で働き、寮に入っていたこともあるそうです。その時のことを「焼きめしとみそ汁ば作りよった。」と話してくれました。実は病院に入院する以前の資料がほとんどなく、病院からの聞き取りと大原さんからの話がすべてでした。

 学校に通っていたという話は聞いたことがなく、「学校には行かされんやった。(通わせてもらえなかった)」と話し、職員が学校に行きたかったですか?と聞くと「いいや。」と答えていたそうです。   

 本来であれば大原さんが義務教育を受けていたであろう時期は、学校教育法で盲、聾学校の義務制が施行されていましたが、養護学校に関しては施行が延期され義務化がなされていませんでした。

 【就学義務の免除・猶予】の名の下に知的障害のある人の教育を受ける権利が侵害されていた時期と重なります。

 大原さんが入院していた時代は、精神科病院には知的障害のある人も入院していて、『治療の場』というより『生活の場』として機能していました。1960年代から1970年代にかけては、重度の知的障害のある人も対象となる入所施設がようやく整備されていく時代になりましたが、行き場がなく在宅生活を余儀なくされる方も多く、その後共同作業所づくり運動という形で、障害者福祉の制度作りが展開されていきました。

 かしはらホームに入所することになった経緯は、長年暮らしていたA病院が『長期入院患者の退院促進』に本格的に取り組み始めたことがきっかけでした。国も本格的に精神科病院長期入院患者の退院支援・地域移行支援に取り組むようになりました。大原さんのこれまでの歩みを振り返る中で、大原さんの人生・暮らしは、その時代の制度や政策にも大きく影響を受けているのだと改めて感じました。

 お祝い会の前にA病院に行き、大原さんをよく知る職員の方に話を伺いました。その頃から独自のバレンタインイベントを生きがいとしていたなど、期待を裏切らない『大原さんらしさ』満載のエピソードは、これまで紡いできた人生の連なりのようなものを感じさせてくれました。

 制度に振り回されて決して恵まれた生い立ちではなかったかもしれませんが、大原さんが持つ思いの強さや、人に気持ちを寄せることが、限られた中であったとしても暮らしを豊かにしてきたように思います。


◆新天地かしはらホームでの暮らし ~多くの葛藤と積み重ねてきた人との関係~

 入所して間もない頃は、しょっちゅうA病院に電話しては「帰りたい。」と泣いていて、眠れないとナースコールで職員を呼んでは「薬ば出せー!」と泣き叫んでいたそうです。私が入職した時期もそういった混沌期で、大原さんも職員も苦しんで悩んでいた時期でもありました。

 今でも何かしら気に入らないことがあると「A病院に電話するけんね!」と宣言しますが、職員が静観していると自分で「私がおった部屋は空いとらんし、〇〇が寂しがるもんね。」と男性職員や気にかけている仲間の名前を出して、大原さんなりにかしはらホームでの自分の存在意義を見出して折り合いをつけています。

 男性職員には恋心を、女性職員にはそれ以外のあらゆる感情を全力でぶつける大原さん。たったひとりで何人も相手できるくらいのパワフルさがあります。入所からこれまで毎日のように、我が子や孫くらいの世代の女性職員に気持ちをぶつけてやりあってきたのは理由があるからではないかと思います。

気に入らないことがあるなど感情的なものもあったでしょう。それとは別に、大きい声で伝えたい溢れんばかりの思いがあったこと、かしはらホームに自分を丸ごと託せるかどうかを大原さんなりに探っていたのではないかと思うようにもなりました。


◆死ぬまでかしはらホームにおるけんね

 一筋縄ではいかない大原さんの思いを受けとめるために、職員は試行錯誤を繰り返して『どちらも納得できる着地点を見つけていくため』のやりとりを大切にしてきました。

 仲間ひとりひとりの個性やペースを尊重するという理念のもと、職員は支援にあたっていますが、やりたいようにやるだけでは暮らしは成り立ちません。一方で、職員の持つ『〇〇でなければならない』というような価値観は時として、仲間にとっての暮らしやすさや楽しみを見出す機会を奪ってしまうことにつながってしまうことがあります。

 例えば…大原さんはパジャマを着ずに普段着(洋服)で寝ています。職員としては寝る時くらいはリラックスしてもらいたいし、場面の切り替え的な意味合いでもパジャマを着るよう入所当初の大原さんに懸命に訴えました。しかし大原さんにとって大切なのは、自分が寝つくまでの不安を職員がいかにして和らげてくれるかどうかだったので、そのことに気付いた職員は大原さんの睡眠にとって大切なものを優先させることにしたそうです。

 社会通念を踏まえつつ、大原さんにとって大事なものや個性を尊重しながら、「〇〇したい」という思いにどうやって応えていくのか実現させていくのかを、職員それぞれが自分の頭で考え、大原さんからの辛辣な言葉に心をかき乱され、大原さんの声が自宅にいても聞こえてくるような錯覚を起こすくらい必死に向き合ってきました。

 そういったことや職員との関係の積み重ねが、『自分の思いはちゃんと受けとめてもらえている』『みんなから大事にされている、愛されている』という実感につながったのではないかと思います。


◆みんな私のお祝い会に来たいやろ?

 当初は今年度秋にお祝い会を予定していましたが、春先に再び体調が悪くなってしまい、『このまま先延ばしにはできない!今しかない…4月にやろう!』というみんなの総意が担当職員を後押ししてくれました。普段なら1~2ヵ月かけてやる準備を、約3週間という短い期間で職員総出でとりかかり、なんとか開催にこぎつけました。山の上ホテルさんのご厚意で広くて豪華な会場を貸し切って万全の対策を行い、お祝い会をすることになり、結婚へのあこがれが強い大原さんの意向を汲んで【披露宴】をイメージした内容と衣装にしました。

 人生最大の晴れ舞台となるお祝い会ともなると、さすがの大原さんも緊張したのか見事に睡眠が安定せず、どうにか前日の夜だけ眠ることができました。お祝い会当日はタクシーで会場入りして花嫁を彷彿とさせるドレスとティアラ姿でみんなの前に登場。拍手と歓声が沸く中、歴代パートナー(男性職員)代表者3名が代わる代わる高砂席までエスコートしてくれました。

 大原さんのこれまでの歩みをスライドで振り返り、来賓の方々や棟の代表者の皆さんからステキなお祝いメッセージをもらい、A病院の職員さんやかしはらホームの元職員などゆかりのある方々からのメッセージ動画には大原さんもビックリしていました。記念品贈呈では指輪をどの男性職員から渡してもらいたいか大原さんに選んでもらい、男性の仲間も何人か飛び入り参加してお祝い会を盛り上げてくれました。

 普段と違って食事なしの式典のみとなり、当初は空腹による暴動が起きるんじゃないかとヒヤヒヤしていました。職員の不安をよそに参加した皆さんは会場から出ることもなくスライドやお祝いのメッセージに真剣に見入って耳を傾けていました。大原さんへのお祝いの気持ちや敬意の現れでもあるでしょうし、『自分も70歳になったらこんな風にみんなにお祝いしてもらえるのかな』と憧れのような気持ちで見ていたのかもしれません。

 大原さんの締めの挨拶は「お腹空いた。」の一言。会場にいる全員の気持ちを見事に代弁したもので、感動だけで終わらせないのはさすが大原さんだなと思わずうなってしまいました。

 お祝い会が終わった後も、A病院でお世話になった川上さんがお祝いの花束とプレゼントを持って会いに来てくれました。お祝い会に参加できなかったけれどメッセージとプレゼントを届けてくれた職員に後日ホームに来てもらいお返しをするなど、しばらくはお祝い会ムードが続きました。物が少なくシンプルな空間を好んでいる大原さんですが、居室にはたくさんのプレゼントやお祝い会の写真、ウエルカムボードなどが大切に飾られています。 

 準備に追われる中で、この時期に本当にお祝い会をしていいのか迷うこともありました。コロナ禍において、これまで当たり前だったことが当たり前でなくなり『私たちは何を大切にするのか、何を守るのか…』そういったことを何度も何度も突きつけられてきました。その度に揺さぶられ、職員間で確認し合いながら取り組んでいきました。

 仲間や職員に万が一何かあったら…といったことが頭の中をよぎりながらも、健康状態に不安があるから先延ばしにはできない…という葛藤もありました。それでも『大原さんが主役となった晴れ姿をみんなが祝ってくれている=私はみんなから愛されている』と、大原さん自身が実感できるうちにやりたいという思いの方が強くなり、大原さんが心待ちにしてくれていたこと、多くの職員が全面協力してくれたことも担当職員の支えになりました。今回のお祝い会は、何より職員が嬉しい気持ちになれたこと、「いい式だったね。」と本当の披露宴かのような感想を多くもらったことは印象的でした。

 関係者の皆さんにはいろんな心配事をさせてしまったと思いますが、ご理解・ご協力いただき、本当にありがとうございました。無事にお祝い会を開催することができてよかったと実感しています。

 最近の大原さんはといいますと…お気に入りの男性職員を引き連れて旅行に行くこと、喜寿のお祝い会をすることが心の支えであり、有言実行スケジュールに組み込まれています。これらを実現するためにはまだまだ元気でいてもらわないといけません。

 これからも持ち味である乙女心と絶妙なユーモアセンス、誰にもマネできない大原たか子らしさを発揮して、自分を丸ごと託せる次世代の職員も育てていってほしいと思います。そして記憶に残る、心に刺さる大原さんオリジナルの名言・珍言を楽しみにしています。

(生活職員 久留須詩子)


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